【日本の城下町】古の息吹を感じる悠久の日本の城下町20選

【平泉】平安京に次ぐ大都市・奥州藤原氏の「陸奥の小京都」

城下町・平泉(岩手県・平泉町)は、政治の中心となる居館「柳之御所」が城と同等の存在となり、平安京に次ぐ大都市にまで繁栄させた、奥州藤原氏の「陸奥の小京都」と呼ばれる町です。

平泉は世界遺産となっていて、その構成資産は「中尊寺」・「毛越寺」・「観自在王院跡」・「無量光院跡」・「金鶏山」です。この町には、仏教の浄土思想の考え方に基づいた寺院・庭園・遺跡の一群が良好に保存されているのです。

嘉保年間(1094~1096年)、奥州藤原氏初代の藤原清衡がこの地に居を移し、政治文化の中心となる都市の建設に着手します。他の城下町の城にあたるものは「柳之御所」と呼ばれる館で、藤原氏が居館としたのはその近くに建てられた「伽羅御所」でした。

束稲山(たばしねやま)を京の東山に見立て、町割りを碁盤目状に整備した景観はまさに京の都に匹敵するほどのもので、「陸奥の小京都」と呼ばれるに相応しい町並みでした。

「金色堂」で有名な「中尊寺」の開創は嘉祥3年(850年)とされますが確かな証拠は無く、実質的には12世紀初頭に清衡が創建したと見られています。その「金色堂」は大治2年(1127年)に落慶し、翌年に清衡は亡くなります。

2代基衡は、久安6年(1150年)から久寿3年(1156年)にかけて「毛越寺」の大規模な伽藍を建立します。更に基衡は、「金堂円隆寺」と広大な浄土庭園を中心とした伽藍を次々と建立し、基衡の妻も「観自在王院」を建立しています。

3代秀衡の時代に平泉は平安京に次ぐ人口を誇り、仏教文化を成す大都市となっていました。しかし、平氏政権から鎌倉幕府へと政権が交代する激動の中で、源頼朝と弟の義経の諍いに巻き込まれる形で、4代泰衡の代をもって奥州藤原氏は滅亡してしまいます。

「平泉観光協会」のサイトには、4つの観光コースが紹介されています。それは、「ひらいずみツーリング」・「るんるんで行く世界遺産巡り」・「平泉歴史探訪」・「みちのく平泉ふたたび」というコースです。

「ひらいずみツーリング」は、源義経・武蔵坊弁慶・伊達政宗・松尾芭蕉などの平泉にゆかりのある偉人たちの足跡を、自転車に乗ってのんびりと巡るものです。「中尊寺」→「毛越寺」→「髢石(かつらいし)姫待の滝」→「達谷窟毘沙門堂」→「平泉温泉悠久の湯」と回ります。

「るんるんで行く世界遺産巡り」は、町内の観光地を1日フリー乗車400円の巡回バス「るんるん」で巡るものです。「毛越寺」→「平泉文化遺産センター」→「中尊寺」→「高館義経堂」→「道の駅平泉」と回ります。

「平泉歴史探訪」は、長い歴史のある町の歴史的遺物・偉人ゆかりの建物などを歩いて巡るものです。「柳之御所跡」→「無量光院跡」→「高館義経堂」→「卯の花清水」→「平泉文化史館」→「中尊寺・月見坂からの眺望」→「平泉文化遺産センター」→「毛越寺」と回ります。

「みちのく平泉ふたたび」は、何度訪れてもその時々の古都の輝きを見せてくれる町を感じられる一泊二日のコースです。移動は時間制観光貸切の「語り部タクシー」を使い、乗務員から平泉の史跡や観光地の案内を受けることができます。

一日目は「中尊寺」→「白山神社」→「平泉文化史館」→「高館義経堂」→「無量光院跡」→「柳之御所跡」、二日目に「金鶏山」→「義経妻子の墓」→「毛越寺」→「平泉文化遺産センター」→「達谷窟毘沙門堂」と回ります。