【日本の城下町】古の息吹を感じる悠久の日本の城下町20選

【津和野】山城跡の山麓に面影が残る「山陰の小京都」

城下町・津和野(島根県・津和野町)は、なまこ塀の映える武家屋敷のある「殿町通り」と蔵やお土産品のお店などが並ぶ「本町通り」が有名な、山城跡の山麓に面影が残る「山陰の小京都」と自他ともに認める町です。

津和野の見所は、「堀庭園」・「城跡観光リフト」・「鯉の米屋<吉永米店>」・「覚皇山永明寺」・「津和野城跡」・「太鼓谷稲成神社」・「鷲原八幡宮」・「西周旧居」・「嘉楽園」・「弥栄神社」・「殿町通りの多胡家老門」・「乙女峠マリア聖堂」・「森鴎外旧宅」・「津和野カトリック教会」・「津和野大橋」など多数あります。

中でも城下町の風情を今に良く伝えているのが「殿町通り」で、なまこ塀と掘割りの鯉など見られる武家屋敷の通りは、これぞ津和野ということを象徴するエリアとなっています。

「多胡家老門」は瓦葺き・間口4メートル・長さ26メートルという立派な武家屋敷門で、門の中には古い佇まいの町役場があります。多胡家は藩主・亀井氏11代に渡って家老を務めた武家で、藩の財政に多大な貢献をした家柄となります。

亀井氏の下、城下町は整備が進み

隣には同じく家老を務めた大岡家があり、ここでも多胡家の門に引けを取らない規模の門を見ることができます。門は薬医門形式・切妻・桟瓦葺・三間一戸で右側の潜り門が格式の高さを表わしています。

「多胡家老門」へはJR津和野駅から徒歩10分、「殿町通り」では他に、「多胡家老門」の斜め向かいに「藩校養老館跡」、少し進んで「津和野カトリック教会」、「郡庁跡」などが見られ、「弥栄神社」・「太鼓谷稲成神社」の参道へと通じています。

「本町通り」は、「殿町通り」を抜けて信号のある交差点を渡って行った所に続いています。この通りには、「三松堂本町店菓心庵」・「カフェ紅葉」・日用雑貨の「分銅屋本店」・「古橋酒造」・雑貨店「海老舎」・「斎藤小間物店」・「華泉酒造」・和菓子の「山田竹風軒本町店」・地域歴史博物館「日本遺産センター」などが並びます。

「津和野城」は、標高367メートルの霊亀山に築かれた山城です。復元されたものは無く、二棟の櫓・石垣・空堀が遺構として残されています。

城跡へは、「太鼓谷稲成神社」へ登る途中に「城跡観光リフト」があり、大人でも歩くと40分もかかってしまう急勾配の山道を楽に登ることができます。リフトのスピードはゆっくりで、周りの景色を堪能でき、振り返れば津和野の赤い瓦の町並みを一望できるのです。

鎌倉時代に沿岸防備を目的に地頭として赴任した吉見頼行は、現在の木部に屋敷(吉見氏居館跡)を設けて、その北側に御嶽城・徳永城を築城しました。その後、霊亀山の南側の「鷲原八幡宮」の裏手から津和野城の築城を開始し、9年ほどで完成を見ます。

吉見氏14代の城となった津和野城ですが、11代正頼の時には百日以上の籠城戦となる三本松城の戦い(三本松城は津和野城の別名)があったりしました。そして、毛利氏傘下に入った吉見氏は、関ヶ原の戦いで敗れた西軍総大将・毛利輝元の防長2ヶ国への縮小に合わせて、津和野から萩へと移住して行ったのです。

吉見氏に代わり津和野城に入ったのは、東軍側の坂崎直盛でした。直盛は城を石垣を多用する均整城郭へと大改修し、出丸や天守の築造も行いました。

しかし、その直盛も徳川家康の孫娘を巡る江戸幕府との対立をした千姫事件で自害し、坂崎氏は改易となります。その後入城したのが亀井政矩で、亀井氏は明治維新まで11代、津和野城の主となったのです。

亀井氏の下城下町の整備は進み、「山陰の小京都」として町は発展するものの、城は落雷の火災にあったり、明治の廃城によって現在のようになりました。