【日本の城下町】古の息吹を感じる悠久の日本の城下町20選

【会津若松】戊辰戦争の舞台となった名城・鶴ヶ城の城下町

城下町・会津若松(福島県会津若松市)は、藩主の松平容保が徳川将軍家と密接な関係にあったことから、戊辰戦争で激戦の舞台となった、名城「鶴ヶ城」に見守られたような町です。

「鶴ヶ城」は別名で、大分県佐伯市の佐伯城や宮城県仙台市の松森城も別名で、過去には上総国・遠江国・紀伊国・美濃国・豊後国などに同じ名の城があり、人気の呼び名なのです。正式な名称は単に「若松城」で、他にもたくさんある同名の城と区別して、地元以外では「会津若松城」と呼ばれることが多くあります。

南北朝時代に蘆名直盛が「小田垣の館(東黒川館)」を造ったのが「鶴ヶ城」の始まりで、15世紀の半ばまでに「黒川城(小高木城)」とその城下が成立しました。天正17年(1589年)、伊達政宗が豊臣秀吉の制止も聞かずに蘆名義広を攻めて滅ぼし、この城を手中に納めるものの、翌年には秀吉に会津を召し上げられます。

次に城に入った蒲生氏郷が近世城郭へと改造を行ない、城下町を整備していきました。この時町の名称が「黒川」から、蒲生氏の出身地にある「若松の杜」や領土であった「松坂」の「松」に由来する「若松」へと改められたのです。

「鶴ヶ城」へと呼ばれるようになったのは、文禄2年(1593年)に望楼型7重の天守が竣工した時です。この後、城の城主は蒲生氏→上杉景勝→加藤氏→保科(会津松平)氏と続き、激動の幕末へと向かっていきます。

会津若松は「会津五街道」と呼ばれる街道が交わる要衝の地で、奥州(現在の東北地方)一の賑わいを見せ、漆器・酒造生産などの商工業の町として繁栄しました。

「会津若松観光ナビ」というサイトには、この町に古を感じる町歩きのコースが紹介されています。「レトロな七日町通りをまち歩き」・「新選組の足跡をたどる」・「会津藩主松平家墓所と会津の歴史をそぞろ歩く」・「まちなかの会津戊辰戦争を偲ぶ」などです。

「レトロな七日町通りをまち歩き」は、創業300年「白木屋漆器店」→郷土料理の「満田屋」→「末廣酒造 嘉永蔵」→藩御用達の老舗「ほしばん絵ろうそく店」→会津木綿の小物やバッグの「もめん絲」→お菓子の「長門屋 七日町店」→「渋川問屋」→「あいづふるさとアンテナショップ 駅カフェ」というコースです。

この町歩きでは、大正ロマンの雰囲気が漂う蔵が建ち並ぶノスタルジックな「七日町通り」で、藩政時代の城下の西の玄関口としての町並みを偲び楽しむことができます。

「新選組の足跡をたどる」は、会津新選組死闘の地「如来堂」→「ほしばん絵ろうそく店」→「会津新選組記念館」→「七日町通り」→土方歳三や吉田松陰の宿跡「清水屋旅館跡」→近藤勇の墓がある「天寧寺」→赤べこの絵付けができる「手作り体験ひろば番匠」というコースです。

「会津藩主松平家墓所と会津の歴史をそぞろ歩く」は、「会津武家屋敷」→「松平家墓所」→「天寧寺」→窯元「会津慶山焼」→戊辰戦争に散った少年志士たちの霊が眠る「白虎隊十九士の墓」というコースです。

江戸時代の「会津藩家老・西郷頼母の屋敷」は再現されたものですがとてもリアルで、県の重要文化財の「旧中畑陣屋」や「数寄屋風茶室」・「藩米精米所」などの歴史的建造物の見ごたえが充分な資料館になっているのが「会津武家屋敷」です。

「まちなかの会津戊辰戦争を偲ぶ」は、「西軍墓地」→国指定史跡「甲賀町口門跡」→「西郷頼母邸跡」→国指定史跡で若松城跡の「鶴ヶ城天守閣」→国指定名勝で会津松平氏庭園の「御薬園」というコースです。

この町の古を偲ぶには、やはり「鶴ヶ城」を見ない訳にはいきません。幕末当時の姿を再現した赤瓦の天守を始めとした名城をじっくりと堪能しましょう。