【日本の城下町】古の息吹を感じる悠久の日本の城下町20選

【周防山口】大内氏と毛利氏によって建設された「西の京都」

城下町・周防山口(山口県山口市)は、大内氏が京都を真似て街づくりをして建設され、毛利氏によって引き継がれた「西の京都」と呼ばれる町です。国宝「瑠璃光寺五重塔」に代表される美しき京文化が香る存在です。

周防山口が誇る寺社関連のものには、この他に重文「洞春寺山門観音堂」・「常栄寺雪舟庭」・重文「龍福寺本堂」と資料館・「清水寺(せいすいじ)」・「龍蔵寺」・重文「源久寺木造平子重経坐像」・「旭山真照院」・重文「月輪寺薬師堂」・「法光寺阿弥陀如来座像」・「凌雲寺跡」があります。

また、神社やキリスト教関連として、「山口大神宮」・重文「八坂神社本殿」・重文「今八幡宮」・「山口サビエル記念聖堂」・「豊栄神社」・重文「古熊神社本殿」・「木戸神社」・「大村神社」・「野田神社能楽堂」があります。

「瑠璃光寺」は、その境内を桜や梅の名所である「香山公園」として、大内氏全盛期の大内文化を伝えています。国宝の五重塔を中心として「西の京都」と呼ばれる山口を代表する観光名所となっており、香山墓所は「毛利家墓所」のひとつとして国の史跡にも指定されています。

室町時代に25代当主の大内義弘が現在の場所に「香積寺」を建立し、応永の乱で足利義満に敗れて戦死した後、弟の26代当主・盛見が兄の弔いで五重塔の建設を始めました。しかし、塔の建設途中で盛見も戦死してしまい、塔の完成には10年以上もかかったのです。

大内氏を滅ぼし山口を治めていた陶氏の7代当主・陶弘房が亡くなると、夫人がその弔いの為に仁保高野の地に「安養寺」を建立し、後に「瑠璃光寺」と改められます。

江戸時代になって、山口を治めていた毛利輝元が「香積寺」を萩に引寺したことにより、仁保高野の「瑠璃光寺」がその跡地に移転し、現在の「瑠璃光寺」となったのです。

周防山口の見所には神社仏閣等の他にも、「露山堂」・「枕流亭」・「旧山口藩庁門」・「十朋亭維新館」・「山口市菜香亭」・「雲谷庵」・「萩往還」・「井上公園」・「其中庵」・「阿知須いぐらの館」などがあります。

周防山口に残る城下町の風情は、「竪小路」という所にあります。ここには、蔵造りの商家や格子窓のある町屋がいくつか残されていますが、徐々に無くなっていく運命にあるようです。

「竪小路」のある交差点までは、JR山口駅から徒歩12分ほどかかり、隣の上山口駅からだと7分くらいなので少し近くなります。ここから「上竪小路」交差点へ行く県道31号線が、「萩往還」の道になります。

山口県庁は、長州藩毛利氏13代の毛利敬親が居城として築城した「山口城」の城跡にあります。城としての名残りは水掘と県の指定有形文化財となっている「旧山口藩庁門」を見ることができます。

元々萩城で周防・長門36万石を所領していた毛利氏が、幕末の有事に備えた拠点として築城したのが「山口城」です。天守を持たない平城で、藩内では「山口屋形(やまぐちやかた)」と呼ばれ、藩外から「山口城」と呼ばれたのでした。

「山口城」の詰城として、城の西側の標高338メートルの鴻ノ峰(こうのみね)に「高嶺城(こうのみねじょう)」があります。この城は、大内氏の時代にも峰の南方にあった「大内氏館」の詰城となっていました。

「高嶺城」は国の史跡となっていて、石垣・郭・井戸が遺構として残り、「大内氏館」と共に続日本100名城(174番)に選定されています。

「大内氏館」は、大内氏24代当主の大内弘世が山口を本拠として移り住んだ時に築かれたもので、京都に真似て街づくりを行なった際に、京の町らしく城ではなくて館としたものなのです。現在は西門・庭園・石組溝などが再建されています。